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2020/08/14

テレビもねぇ、花火もねぇ

花火、上がらないね。

コロナウィルスの影響で今年はどこの花火大会も中止と延期ですね。
ボクの地元・新潟県長岡市が誇る長岡花火も同じように開催されず。

この花火を楽しみにしている人たち、もちろん自分も、心にぽっかり穴が開いたような夏です。

ただ、そんな自分は元々、人がたくさん集まると一回そこに背を向けたくなるような天邪鬼で
実は最近までこの長岡花火に大きな思い入れはなかった。

出身地と言いながら長岡市郊外の田舎町に生まれた自分には、街場でやる大きな祭の、どこか他人事で。
花火の大きな音を遠くで聞いている…くらいでも十分だった。

それは、市町村合併により出身地が長岡市になってからもそうだったな。

大衆的な誰でも楽しめるダイナミズムなんて…

人が作った大スケールのわかりすい感動なんて…

復興だから”フェニックス”って…

とんだひねくれもの。
高校を出る時に長岡も出て、色んな所に住んだり旅をしたり。
で、十数年経って少し身軽になった自分は長岡に戻る事になるのだけど…。

長岡に戻って初めてまともに見た長岡花火は、わかりやすいとかにくいとかそういうものじゃなくて。
スケールがどうのとかでもなく。想像していたのと違う、初めて見る光景だった。

”フェニックス”なんて、目の中の大部分が花火になって、感覚のほとんどが花火になったような、そんな感じ。
そして、花火自体、散り際の綺麗さや儚さっていうひねくれた?美しさもあるもんだと。

そして、みんなが同じように頭を上に傾けて、同じようにただ花火を見る光景は、
それはそれで美しいものだった。
あんだけの炎と轟音が平和につながるなんて不思議だ。

ボクの愛する麦わらにランニングシャツのあの人も、やっぱり同じように花火を見ていたんだろうか。

そもそも長岡まつり花火大会は、1945年8月1日の長岡空襲からの復興を願い、
翌年8月1日に行なわれた長岡復興祭が起源となっているそうです。

だからこの日は慰霊と反戦の意味もある。
だからそもそも大スケールの感動とかでは済まない事なんだなと。

そういうものが地域にちゃんと根付いてて、それがちゃんと花火の光に宿っているような…
なんて言うとちょっとポエティックがすぎるけど。

それでもやっぱり戦争とは真逆のそれが、どの夏の空にも、日本のどこの空にも上がっていて欲しいなと思う。

また来年に会いましょう。